はじめに
『死とは何か』は、西洋の名門イエール大学で23年連続人気の、シェリー・ケーガンさんの講義 “What is Death?” を一冊にまとめた哲学書です。2018年に日本語版が発売されてから爆発的人気を博し、書店で平積みされているのをチラッと見かけた方も多いのではないでしょうか?
しかし、いくら人気といえど、日本語版『死とは何か』は439ページもある超大書です。内容は非常にわかりやすく書かれていますが、講義をまとめたという性質上、専門知識がないと読みにくい場面もあり、時間を取るのがなかなか難しいですよね。
そんな方のために、この記事では『死とは何か』についてわかりやすく、簡潔にまとめていきたいと思います。
(なおシェリー・ケーガンさんの実際の講義動画は、open yale courses にて大学側からオンライン配信されていますので、疑問や興味があればそちらも是非)
5つの要点
まず『死とは何か』の内容を大きく5つに大別すると、
- 死の性質について
- 死はなぜ嫌がられるのか
- 不死は良いことか?
- 死が教えてくれる人生への接し方
- 自殺は悪いことか
となります。この下でざっと、それぞれの結論を簡易に述べ、詳しい内容を要約しました。
1.死の性質について
まず1つ目の、死の性質についてです。
一言で言うと、「死は身体が作動し、それから壊れる、ただそれだけのこと」だと本にはあります。
もちろん物理学や生物学からすると、どの時点で死ぬのか(脳死が死か、心臓停止が死か)など沢山の曖昧な点があることは認めなくてはなりません。
しかし、哲学的観点からすると、そのような議論はあまり意味をなさず、魂(身体の死後も存在し続ける人格)がない以上、死は身体の破壊以外の何物でもないというのです。
身体が破壊されて生命を維持できなくなった瞬間、私たちが「私」と定義する人格は消滅するということですね。
2.死はなぜ嫌がられるのか
次に2つ目の、死はなぜ嫌がられるのかについてです。
死の大きな特徴として、私たちの存在を消滅させるというものがありますが、多くの人はまさにそれ自体を嫌厭します。「いなくなりたく」ないのです。
しかし実際、私たちが非存在になる、という事態はそれほど悪いことでしょうか?
そうではない、と著者は言います。存在しない者は悲しみも苦しみも経験しようがないので、私たちが死んだ瞬間から「私は非存在になっちまった!悲しいよ」と嘆く主体は存在しえなくなる、ということです。
「本人が存在していないときに、存在しないことがその人にとっていったいどうして悪いことでありうるのか?」そう著者は記します。
しかし、非存在にはもう1つ悪い点があります。それは、その人が楽しい思いや幸せな思いをする機会を奪ってしまう、ということです。
死ねば私たちは存在しなくなり、その先享受しえたかもしれない快楽を(苦痛も)得る機会を永久に失います。それこそが死の最大の功罪である、とする考え方を「剥奪説」というのですが、それを著者は部分的に肯定し、また部分的に否定しています。
否定した部分は「その先享受しえたかもしれない全ての経験が、苦痛に満ちたものであった時における剥奪説の適用」です。剥奪説を一言でいうと、「もっと幸せになれたのに死のせいで無理だった!」ですが、これが通用するのはその人の先の人生が幸福である場合のみ。
その先が苦痛しかない人生の場合、前提が覆され剥奪説を適用できない、とのことでした。
一方、肯定したのは剥奪説の要の部分。
「死のどこが悪いのかといえば、それは、死んだら人生における良いことを享受できなくなる点で、それが最も肝心だ。死が私たちにとって悪いのは、私たちが死んでさえいなければ人生がもたらしてくれただろうものを享受できないにほかならない」と作者は綴っています。
3.不死は良いことか?
3つ目の議題は、不死は良いことか?です。
「可能だとしたら、あなたは不死を手に入れたいか?」との副題から始まるこの章では、結論から言うと、不死の悪さについて滔々と解説されていました。
著者によると不死は永遠の退屈であり、これからの永久の時を、常に最高の快楽だけ提供される人生であったとしても維持する価値はない。そうはっきりと述べているのです。
そう言い切る理由としては、私たちが人間である以上いつかは高次な視点に立ってその快感を見下ろし、「人生とはこれだけのものなのか?」と自問し苦しむからだ、と記述されています。
本文中の例えを拝用するならば、チョコレートが大好きな人がいたとして、大量のチョコレートを毎日毎日食べ続けなければいけなかった場合、どうしてもいつか嫌になって胸焼けしてしまう、ということです。永遠の命は、このシチュエーションによく似ています。
4.死が教えてくれる人生への接し方
4つ目の、死が教えてくれる人生への接し方、については非常に明快な結論が述べられています。
死(終わり)がいつか来るのだから、時間的な面で、私たちに許されたやり直す機会は非常に限られているのです。ですので、人生が無駄にならないように慎重な計画を立てて行動する必要がある、そう繰り返し記述がありました。
確かに、私たちの人生でやり直せる機会はそれほど多くありません。素晴らしいことは世の中にたくさんあるのにも関わらず、それらをいくつも叶えるための時間(人生)は短すぎるほどです。
自分のやるべきことを遂げるには時間が限られていていること、それゆえ目標まで駆け抜ける必要があることを、死は思い出させてくれますよね。
5.自殺は悪いことか?
最後の5つ目は、自殺は悪いことか?というセンシティブな議題でした。
この章で著者は、「自殺は常に正当であるわけではないが、正当な場合もある」と結論を述べています。その人の生が苦痛に満ちていて、もはや回復しようがない場合(不治の難病など)には、これから先の幸せが見込めないため自殺は正当であるべき、ということなのです。根拠として、自己の命は自分で処分できる財産の1つであることを挙げています。
一方で、どのような場合にも自殺を認めることには反対姿勢をとっています。そうしてしまうと、短絡的な思考で不可逆的に自己を失ってしまう(思春期の自殺衝動など)ことがある、との考えからです。
まとめ
以上5つの項目が『死とは何か』の大きな柱となっていましたが、後書きにおいて、シェリー・ケーガンはこうも述べています。
「本書の冒頭で私は、死の本質について考えるように読者のみなさんを促した。ほとんどの人は、そんなことはするまいと躍起になる。死は不快なテーマであり、私たちはそれを頭から追い出そうとする。〜(中略)〜だから、私は本書を通じて、生と死にまつわる事実について自ら考えるように読者の皆さんを促してきた。だがそれ以上に、恐れたり幻想を抱いたりせずに死に向き合うよう促してきたのだ」
この筆者の台詞からも分かるように、この本は、終始一貫して死へと冷静に向き合い、事実と論理を通して考察を深めていくのに最適な哲学書だと言えるでしょう。
- 死は怖くないが、幸せを享受する機会を奪っていくという点において悪い
- 死について冷静に考えれば、人生をどのように生きていくべきかも見えてくる
- 自殺は正当化されるべき時もある
- 死とは非存在になること
- やり直せる機会はそれほど多くないから、目標に向かって直進すべき
以上、まとめでした。
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